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日常がどこまで現実味があるか?って日頃よく考える。これだけAIが進んで、表現されるヒトモノコトがAI生成で満たされまくると、やがて間も無く参照元のビッグデータもAI生成物で占められるようになっていって、世界は“ある方向”のみに収斂して行く気がする。その借物観/仮物観が現実になって行く遷移の間隔に立ち会ってる感覚は(いい悪いじゃなくて)なんか不思議な幻惑的感覚なのです。日常こそfictionであるというか、仮に周囲のヒトがAI(ロボット?アンドロイド?サイボーグ?ウォーカロン?)になっちゃってしまうとしても、なんかrealがfictionになって行くそんな遷移世界に遊蕩しててもいいのかな?とも想えてしまう自分がいる訳です。これはきっと長年テレビというキラキラした仮物/借物で構成されている世界に自分の脳を浸して来た副作用だとも判っているのだけれど、芭蕉の“月日は百代の過客にして“の過客とは、こんな感覚なんじゃ無いかとも想うのです、現実とは想い出でしかないというか、その想い出もレタッチされまくった画像のような。
2025/11/24 10:08
