今回、ご紹介するのは、イギリス出身のクラシック・ピアニスト、ポール・クロスリーによるドビュッシーの演奏です。しかしながら、「クラシック・ピアニストといえば?」と聞かれたとき、ポール・クロスリーは最初に名前が挙がるような存在ではありません。クラシック界で有名なピアニストといえば、マルタ・アルゲリッチやグレン・グールド、マウリツィオ・ポリーニなど。日本人だったら、内田光子さんやフジコ・ヘミングさん、辻井伸行さんあたりを思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれません。実際のところ、ポール・クロスリーを日本語で検索しても、情報がそれほどたくさん出てきません。一応、CDジャーナル誌が作成しているポール・クロスリーのプロフィールを以下に引用させていただくと…
1944年、イギリス生まれのピアニスト。オックスフォード大学でオルガンを学び、1967年からパリに留学、オリヴィエ・メシアンとイヴォンヌ・ロリオに師事する。1968年、メシアン国際ピアノ・コンクール第2位に入賞し、その卓越したリズム感を生かして、現代音楽の分野で活躍する。ティペットから献呈されたピアノ・ソナタ第3番など、同時代の作品の初演も意欲的に行っている。また、ドビュッシー、ラヴェル、フランク、メシアンなどのCDもリリースしており、いずれも高く評価されている。
…ということで、20世紀に入ってからの近現代音楽を中心に演奏してきたピアニストであることがわかります。現代音楽はクラシックの中でもマイナーな部類に入るため、その分野を中心に演奏しているポール・クロスリーがなかなか脚光を浴びないのは致し方ないことなのかもしれません。しかし実を言うと、ポール・クロスリーの演奏のすごさは、この現代音楽を中心に演奏してきたキャリアに裏打ちされたものでもあるのです。現代音楽は、恐ろしく複雑で難解なリズムや和音を組み合わせた楽曲がたくさんあります。ポール・クロスリーはそんな複雑で難解な楽曲ばかりを弾きこなしてきた凄腕ピアニストなのです。
ちょっと話が逸れますが、僕自身は、クラフトワークやYMOに端を発したテクノ音楽や、R&Bやヒップホップなどのダンス・ミュージックを浴びるほど聴きこみ、その後にクラシック音楽の奥深い世界へと聴き進めていった経緯があります。この流れでクラシック音楽の演奏を聴いてみると、クラシックの演奏家が持っているリズム感のなさに少しガッカリしてしまうことがよくありました。とくに19世紀のロマン派と呼ばれた作曲家(シューマン、ショパン、ドヴォルザークなど)を取り上げた演奏を聴くと、ロマンチックな感情に流された表現に走りすぎ、その結果としてリズム感が著しく欠如した演奏に出会ってしまうことがあったのです。もちろん、クラシックの演奏家にポップスのようなリズム感を求めるのはお門違いだということはじゅうぶん承知しているつもりですが、クラシックもジャズもポップスも民族音楽もボーダーレスに聴き進めてきた僕としては、クラシックのそういうところがもうちょっとなんとかならないものかなあ、と感じていました。
そんなことを感じながらたまたま手に取ったのが、ポール・クロスリーによる「ドビュッシー:ピアノ独奏曲全集」のCDでした。一般的に、ドビュッシーのピアノ独奏曲における名盤とされているのは、イタリアの巨匠ピアニスト、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリによる演奏です。ミケランジェリの演奏は確かに素晴らしくて、ドビュッシーから大きな影響を受けた坂本龍一さんもミケランジェリの演奏について、「第6曲〈雪の上の足跡〉は《前奏曲集》でいちばん好きな曲です。ドビュッシーの中ではもっとも音数が少ない曲ですね。聴けるだけいろいろなピアニストの演奏を聴きましたけど、やはりミケランジェリがいちばん好きですね」と語っています。そういう意味では、ポール・クロスリーのドビュッシー演奏はミケランジェリの演奏と比べると、世間的な評価はイマイチになってしまうのかもしれませんが、僕自身、ドビュッシーに関しては、ミケランジェリの演奏よりもポール・クロスリーの演奏のほうが個人的に好きです。
ポール・クロスリーの演奏は、和音をバランスよく美しく響かせるところが特徴的で、革新的な和音構成によって20世紀の音楽における新しい扉を開いたドビュッシーの本質を見事に捉えていると思います。僕はドビュッシーという作曲家に興味を持って以降、ポール・クロスリー以外のピアニストによるドビュッシー演奏もたくさん聴いてきましたが、ポール・クロスリーの演奏で聴くことのできる和音のバランス感覚こそが、最も明晰で説得力のある響きだと感じました。また、先ほどから何度か言及しているリズム感についても、ポール・クロスリーの演奏は恐ろしく正確なビートを刻みつつも決して淡白なリズムにならず、おかげで楽曲全体に活き活きとした生命力がみなぎっているように感じます。僕が購入したポール・クロスリーの「ドビュッシー:ピアノ独奏曲全集」のCDには当時、日本が誇る現代音楽の作曲家、武満徹さんによるコメントが掲載されていました。武満さんは「これまで気付かずにいたドビュッシーの音楽の新しさと強靭さを、私たちに知らせるだろう」とコメントしていましたが、僕はまさしくこのポール・クロスリーの演奏によって、ドビュッシーという作曲家の奥深い魅力を初めて知ることができたと言っても良いかもしれません。
さて、ポール・クロスリーの「ドビュッシー:ピアノ独奏曲全集」は珠玉の楽曲ばかりが収録されていますが、今回は《前奏曲集 第1巻》(Préludes, Book 1)から、第5曲〈アナカプリの丘〉(Les collines d'Anacapri)を紹介させていただきます。この曲は、ドビュッシーのピアノ独奏曲の中でも僕がいちばん好きな楽曲のひとつで、躍動感にあふれつつも抑制された感情のバランスが絶妙なポール・クロスリーの演奏を味わうことができます。ポール・クロスリー自身によるライナーノートによれば〈アナカプリの丘〉は「騎馬行進と、荒々しいタランテラ舞曲と、イタリア民謡風の一節」と書いてあります。言われてみれば確かにこの第5曲〈アナカプリの丘〉はどこか民族音楽的な香りもするなと感じていましたが、ドビュッシーは楽曲の中に南イタリア起源の舞曲「タランテラ」やイタリア民謡風の一節を取り入れていたんですね。僕はこの曲を含めた《前奏曲集》を深夜の静かな時間帯に流すのが大好きで、これまで何百〜何千回と聴いてきましたが未だに飽きることがなく、聴くたびに何かしらの新しい発見をもたらしてくれます。これこそがドビュッシーという作曲家の持つ音楽的な深みであり、そのような作曲家は古今東西を見渡しても、数えるほどしか存在しません。その魅力を見事なほどクリアに浮かび上がらせてくれた、ポール・クロスリーの「ドビュッシー:ピアノ独奏曲全集」は、これからも僕にとって最高のマスターピースの一枚となり続けるでしょう。
Paul Crossley "DEBUSSY: Préludes, Book 1, L. 117: No. 5, Les collines d'Anacapri"


2026/02/24 20:35
